出葉の調色版@ラクイラ愛好会

出葉(てには)が震災のことや防災のことについていろいろ書くだけのブログ。震災記事書き起こし: http://te2ha.blog.jp/

なぜイタリア人は地震などの悲しい報道を共有したがるのか

なぜイタリア人は震災などの悲しい出来事をFacebookTwitterなどで共有したがるのか。

少なくとも東日本大震災を被災した私と私の日本人の友人達は思い出したくないと願う。目を合わせるのも悲しいほどの出来事から、目をそらしたいと思ってしまう。思い出したくないという思いから、ニュースを一切見なくなった東日本大震災の被災者を、私は知っている。

 

これは私の積年の疑問であった。なぜあんなに悲しい出来事を思い出そうとするのか??

 

「イタリア人の苦手なところは、あくまでラクイラの魅力を語り合うための平和な場所に平気でリゴピアノの惨事(※雪崩に巻き込まれたホテルで、29人が亡くなった惨事)のニュースを載せたりするところ」 

これが私の率直な感想である。まとめると。

 

なぜあんなに悲しい出来事をわざわざ思い出そうとするのか。思い出すことには苦痛が伴うはずなのに。現に、私の胸は今でもそのことを思い出すと抉られるように痛む。

 

だが、彼らは惨事を思い出すときの痛みを恐れ何も言わないことよりも、それを共有し悲しみを忘れないため、また悲しみを共有することを選んだ。

 

それが犠牲者のため、ひいては自分たちのためだと思っていて、そしてそれは間違っていない。

私達は語り継ぐことをしなければすぐに悲しいことを忘れてしまう生き物だ。 

そう、その決断はまるで、原爆ドームを保存することを選んだ日本人のようだ、そう私は思った。

 

そして私はすぐにこれを思い出した。

イタリアの地震被災地の話である。

 

被災地を丸ごとコンクリートで封じ込める。地震で廃墟化した町を封じ込めた巨大アート : カラパイア

以下引用する。

 

これは、震災で命を落とした人々の追悼碑でもあり、震災を忘れないようにするための意味合いが込められている。廃墟となった町並みを丸ごと封じ込めた大胆なモニュメントはいくつかの物議を醸しているものの、見る者を圧倒する迫力を秘めている。

 (中略)

その際に廃墟と化した旧ジベッリーナを案内されたブッリは、この被災地に震災で命を落とした人々の追悼碑の役割を果たすと同時に、古い町と新しい町をつなぐ芸術的な絆を表す巨大なモニュメントを造ることを思いつき、その作業が進められることになった。

 

いくらそのモニュメントを見ることが被災者の心を痛めても、いくらリゴピアノの惨事について思い出すことが被災者の心を痛めても、彼らは忘れない、忘れたくないと心から願っているのである。

 

忘れたくない、忘れてしまってほしくない。

その言葉は、悲しい出来事、つまりラクイラで起きた地震を経験した彼らの思いだろう。

 

そして私がそれを忘れないためなら、皆がそれを忘れないためなら、多少の痛みは耐えられるということである。

 

以下、イタリア人の意見を引用する。

私たち人間は、簡単に物事を忘れてしまう生き物だ。それがどれだけ悲劇的であっても、それがどれだけ忘れてはならない出来事であったとしても。

現に2016年8月24日のあの震災(※イタリア中部地震)のことを誰が覚えているだろうか?

忘れてしまっている人たちも多いのではないだろうか??あんなに悲しい出来事が私達の国に起きたのに、そして多くの人たちが亡くなったのに、私たちは何の教訓も得ずにそれを忘れてしまう。

それは本当にまずいのではないか?そして、犠牲者に失礼なのではないか?

私たちは思い出さなければならない。

同じことをくり返し、新たな犠牲者を生まないために。(後略)

 

なるほどなあ…これは想像以上に深い文化の違い、と総括できるのだろうか。

皆さんなら、どちらの痛みを選ぶだろうか?

 

被災地の友人達から学んだ、心を病まないための方法

私にはラクイラ(イタリア中部の都市)に友人達がいるが、彼らにウェルビーイング(精神的に健康でいること)のコツを私は教わった。

彼らに直接聞いたわけではないが、彼らと関わることでそのコツが見えてきたのだ。

 

ある友人は、陶芸が趣味で、長らくコンテストにも応募しているという。

ある友人は、詩を書くのが上手で、私はいつもその詩に感動している。

ある友人は、絵(油彩画)を書くのが得意で、いつも素晴らしい作品をインスタグラムに載せている。

ある友人は、小説に類稀なる才能があり、小説投稿サイトに作品を載せている。

 

これはラクイラの友人達に限った話ではなく、おそらく大多数のイタリア人にあてはまる(情報源は私が関わった人達)のだが、彼らは、そしておそらく大多数の日本人も、なにか優れた特技を持っている人がいるのだ。

本人の気づいていないものも含めて。

 

私の友人達(これはラクイラの人々に限らない)には本当に悲しいことや辛いことが次々と起きている。

ある友人は両親を突然事故でなくしたり、ある友人は長年親しくしていた兄弟を病気でなくしたりしている。

ラクイラに住むある友人は震災後ずっと失業中だったり、故郷を地震により追われたりした人たちもいる。

 

それでも彼らが今日もツイッターに詩を載せたり、今日も小説投稿サイトに小説を書いたりしているのは、こういうことだ。

 

苦しみを詩に変える。悲しみを小説に変える。

つまり、彼らは山のように悲しい出来事があっても、それらを芸術に昇華しているのだ。

イタリアには「地震の映像が流れます」という警告はない―津波の映像のトリガー警告に関して―

一般的に、欧米では「地震などの報道を、そっくりそのまま報道する」といわれる。

それはつまり、倒壊した建物や、生存者を救出した瞬間や、その他言葉にならないほどひどい映像を、「そっくりそのまま」報道するということである。

日本では、ある程度の規制(BPOなどによるものなのだろうか)があり、とても悲惨な画像を流す前には「ここからは悲惨な映像が流れます」とか、「津波の映像が流れます」といった文章、つまり「トリガー警告」が発せられる。

イタリアには全く、そのような文化はない。

 

そして私はずっと、その「そっくりそのまま報道する理由」がわからずにいた。

報道を見るだけでも惨事ストレスなどによりPTSD心的外傷後ストレス障害)を発症しうるので、あまりにも悲惨な報道は自制されるべきであり、自制されている日本の報道体制は間違っていないと思っていた。

なぜ、イタリアでは地震により自殺をする方がいる(震災自殺)くらい追い込まれている人々もいる中で、「地震の悲しい映像をそのまま流すのか」ということ、それが私の疑問だった。

 

その問いへの答えにつながる有力なヒントは、偶然わかることになった。

 

アブルッツォ州ラツィオ州モリーゼ州などイタリア中部の素敵な風景を載せる」FB(フェイスブック)グループに私は参加している。

そこで、突然アマトリーチェの震災に関する画像を載せた人がいた。

投稿日時は11月24日。

でも、月命日(※震災が起きたのは2016年8月24日)だからといっていったいなぜ、この平和なグループに「トリガー警告」つまり、「これから震災の画像を載せます」といった警告もなしに、彼は画像を載せたのか?

気になったので、私は彼にメッセンジャーで聞いてみた。

 

送ったメッセージはこうだ。(※原文はイタリア語)

突然すみません。私はあのグループに入っている出葉(※ここは本名になっているが)と申します。

本日あなたが投稿した震災の画像の意図は何でしょうか?

私も、あの震災を忘れてはならないと思いますし、思い出すことは必要だと切に感じています。

ですが、このグループの会員のうち多くはイタリア中部に住んでいて、あの震災の悲しい記憶があるはずです。

なんの警告もなしに(警告とは、たとえば「震災の画像を載せます」などといったことです)あの画像を載せるのは、あの震災で心を傷つけられた人たちにとって良くないと考えています。

私は日本に住んでいますが、当時あの映像を見て本当に悲しくなりました。

そして日本には、東日本大震災などの映像を流す際、「津波の映像が流れます」という警告があり、本当に映像を見たくない人は「津波の映像が流れます」という警告を見て、テレビを切ることができます。

あなたの意見を求めます。もしよかったら返事を下さい。

 

すると、彼はこう言った。

確かに君の意見はわかる。思い出すだけで苦痛になるという人がいるのもよくわかる。第一、私がそうだからだ。

もう少し私は画像を載せることに慎重にならなければならなかったかもしれない。

ただ、私の意見を言わせてもらいたい。

私たち人間は、簡単に物事を忘れてしまう生き物だ。それがどれだけ悲劇的であっても、それがどれだけ忘れてはならない出来事であったとしても。

現に2016年8月24日のあの震災のことを誰が覚えているだろうか?

私たちは思い出さなければならない。そして、思い出すためには画像や映像のほうが手段として適している。文章だけでは悲惨さが伝わらない。

そして私たちはこのような映像に暴露されることに慣れている。事実あの震災の日も躊躇なくひどい映像が流れていた。

君の意見もわかるけれど、やはり私はあのような画像がないと「衝撃」が、「悲惨さ」が、つまり覚えていることが難しいのではないかと思う。

 

そうか。

彼は、「悲惨さ」、つまりあの地震がどれだけ恐ろしいもので、破滅的なもので、壊滅的なもので、ひどいものだったのかを言いたかったのか。

それでも、私は少し納得できずにいた。

 

アブルッツォ州ラツィオ州と言えば、あの地震(イタリア中部地震)で被害を受けた場所である。つまり、彼らの中には思い出すことさえ苦痛な人もいるはずなのだ。

現に、私がそうだ。あの震災のことを聞くと今でも私は胸が抉られるような悲しみに包まれる。

 

そこで、私はさらに尋ねた。

 

私は日本に住んでいるが、日本では必ずこのような警告がある。『これから、津波の映像が流れます』といった警告だ。

イタリアにはそのようなものがないと聞いた。

それは本当だろうか?

イタリアでは、日本よりも悲惨な映像や画像をそのまま流すとも聞いた。

それはあなたの言う通り、「悲惨さ」を伝えるためなのだろうか?「事実」を伝えるためだろうか?

あの震災で被害を受けた人は、思い出すことさえ苦痛なはずなのに、いきなり悲しい映像を見せられたら、最悪の場合、つらい記憶のフラッシュバックが起こるかもしれない。

そこについてあなたはどう思う?もしよかったら返事を下さい。

 

彼はすぐに返事をくれた。

さっきも言った通り、私達は文章だけでは忘れてしまう生き物だ。

フラッシュバックが起こるほどつらい思いをしている人は、そもそもトリガー(引き金)にかかわるものを避けるはずだ。

だから、私は皆にあの震災を思い出させるために投稿した。

 

 

なるほど、と思った。

彼は以前報道局で働いていたとも、のちに教えてくれた。

 

「事実を伝える」ことを優先するのがイタリアで、「被災者の気持ちに配慮する」ことを優先したのが日本である。

これが私が導き出した結論だ。

 

「事実を伝える」ことを優先した結果、その報道は悲劇的なものになり、日本ではその逆が起きている。

 

なるほど!

 

もっとこの話題を知りたいあなたへ

イタリアと日本の地震報道のあり方 参考資料 - 出葉の調色版@ラクイラ愛好会

 

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欧州震撼「溺死したシリア難民の子ども」の写真から考える日本のメディアの限界、それでも伝えるべきこと(志葉玲) - 個人 - Yahoo!ニュース

東日本大震災から数日後、本当に星が綺麗だった夜

私は東日本大震災を被災したと以前述べました。

停電がまだ治らないある日、雪が止み、突然綺麗な星空が見えたのです。

私は慣れない避難所生活で、疲労が限界に達していました。寝ようとしていたちょうどそのころ、知人が私の肩をたたいて言いました。

「星空が綺麗だよ」

え?星空?

私は彼が最初何を意味していたのか分かりませんでした。こんな絶望の空の下で、本当に希望などあるのか?星空は希望の象徴でしたから、私は思わず耳を疑ったのです。

 

本当に、言葉にならないほど綺麗なその星空に、私は思わず心を奪われました。

写真を撮ろうと思い気づきました。

私の趣味の一つは自慢の一眼レフカメラで写真を撮ることでしたから。

ここは避難所で、私がカメラを自宅に置いてきたことに。だから当時の写真は撮れていませんが、本当に、言葉にならないほど綺麗でした。

 

絶望の空の下にも希望はある。

それを私は心から感じました。

東日本大震災が起きた日、私はどこで何をしていたか

私は東日本大震災(言うまでもなく、日本において2011年3月11日に起きた震災)の被災者です。

 

そこで私は「当時、どこで何をしていたか」をひとりの被災者として、発信していかなければならないと思い、今この記事を書いています。

 

私は当時学生でした。

そのため、帰りのホームルームをやっていた最中に突然強い揺れが私達の教室を揺らしました。

同級生の中には、母の名を呼び泣いている人や、死を覚悟したのか別れの言葉をとっさに言う人がいるなど、かなり恐怖がありました。

 

ですが、私はなぜか落ち着いていて、「ああ、いま地震が起きているなあ」と思っていました。この余裕はどこから来たのやら。

ただ、私は何も考える余裕がなかった、それだけなのです。

 

そして、担任の教師の指示に従い、校庭に避難することになりました。

校舎が倒壊する危険があるから、と担任は説明しました。

一部納得していないように見えた生徒もいました(とくに下の学年)が、皆落ち着いて校庭に避難をしました。

外は寒く、少しだけ雪が降っていました。

私は机の上に置いてあった外套が、地震の揺れによって落ちてしまって、それを拾うだけの心の余裕もなかったので、コートなしで避難しました。

かなり寒かったので、後日私は避難所にて風邪をひくことになります。

 

手がかじかみ震えていく中で、空がだんだん暗くなる中で、だんだん私の不安は強まっていきました。

母も父も仕事で家にいない。本当に迎えに来てくれるのだろうか?

そもそも、無事なのだろうか?

まさか、地震で死んではいないだろうか?

そう考えると私の小さな胸は不安ではちきれそうでした。

 

最後から2番目でした、父が迎えに来たのは。

「ごめん、待たせたね。」父が思いっきり私を抱きしめてくれたのを今でも覚えています。

 

そして、私は避難所へと向かうのですが……聞かなくてもわかる通り狭く苦しい環境であり、特に「聴覚過敏」を持っていた私にはひどくつらいものでした。

 

そのため父が偶然持っていたキャンピングカー(※アマトリーチェの人々もこれを使って車中泊をしています)を使い、私たちの家は避難所の近くで車中泊をすることになりました。

 

幸い自宅は一部損壊で済んだので、すぐに車中泊からは逃れられましたが……。

震災の報道でよく見る、CASEとは何か?

結論から言います。仮設住宅の名前です。

 

C.A.S.E. とは、「持続可能な免震エコ住宅コンプレックス」の略であり、ラクイラ近郊に最大4449戸あり、ラクイラ大学の学生寮や、公営住宅に使われています。

 

3階か4階建ての低層免震住宅で、複数の世帯の方が住まれています。

 

以下ウィキペディアより引用…

 

この地震ラクイラの震災)により62543人が自宅を失った。

このうち28579人は5553張りのテントに、33964人は518のホテルに、2225人は民家に避難することを余儀なくされた。

(中略)

仮設住宅については、3種類あり、持続可能な免震エコ住宅コンプレックス(C.A.S.E.)、仮設住宅モジュール(M.A.P.)、それに仮設校舎モジュール(M.U.S.P)である。これらは順にラクイラ大学の学生寮等、公営住宅、教育施設に用いられた。

イタリア在住者必見!住む土地の地震リスクを「5秒で」知る方法

イタリア在住者、もしくは在住予定者へ。

あなたの住む土地は安全でしょうか? 

まず、イタリア語版のウィキペディアを開きます。検索窓に調べたいコムーネの名前を入れてもよいです。

 

ここはラクイラ愛好会なのでラクイラを例に調べます。


f:id:te2ha:20181122145004j:image

 

次に、ページを下に辿り、Cl. sismicaと書いてある欄を探します。

 


f:id:te2ha:20181122145114j:image

 

ちなみにラクイラの場合は、zona 1 (sismicità alta)と書いてあります。

 

これは以下のリンク(イタリア語)に詳細が書いてあります。

https://it.m.wikipedia.org/wiki/Classificazione_sismica_dell%27Italia

 

イタリアの全てのコムーネ地震のリスク順に4段階(1が一番危ない)に分けたものです。

 

これは定期的に改正されるようですよ。