出葉の調色版@ラクイラ愛好会

出葉(てには)が震災のことや防災のことについていろいろ書くだけのブログ。震災記事書き起こし: http://te2ha.blog.jp/

被災者にかける「頑張れ」に代わる言葉を、私はずっと探していた。

被災者に「頑張れ(Forza)」に代わる言葉をかけるために、自分の言葉で被災地を励ますために学び始めたイタリア語だったが、学習を始めて1年が経っても、いまだにしっくりくる言葉が見つからない。

「ひとりじゃない(Non sei solo)」とか、「側にいるよ(Siamo con voi)」とかいう言葉があるのも知った。 ただ、私は日本にいる限り友人の震える肩を抱くこともできないし、友人が泣いていても側にいることもできない。

結論として、すべて綺麗事に聞こえてしまうのではないだろうか。探し続けても、調べ続けても、あの地震の映像と、進まない復興を目にすると、どんな言葉も非力な気がする。

ただ、この度の北海道地震で、この問に関する答えが見つかったような気がする。 あくまで、私的な中間報告にすぎないが、聞いてほしい。

 

私にはラクイラ(イタリア中部)にたくさんの友人がいる。ラクイラは2009年の地震から未だに復興していない。 友人たちは仕事を失ったり、愛する人を失ったり、たくさんつらい思いをしてきた。

彼らは、日本で台風や地震などがあると、欠かさず連絡をくれる。 「北海道で地震があったらしいけど、大丈夫!?」と。 そして、私が無事だと言うと、「無事でよかった!」と連絡をくれる。 些細なことかもしれないが、私は本当に救われた。

そしてある日、私の一番の親友(彼女もラクイラに住んでいる)がこのように言ってくれた。 「私達は遠く離れているけれど、私たちの心は側にあるよ。素敵な友達ができてとても嬉しい。」 これを聞いたとき、やはりどんなに距離が離れていても、心は繋がっていられるのかと思った。

彼らが「海外であった自然災害などを、他人事にしない」というそのことに、私は救われた。 私自身日本での震災(東日本大震災)の被災者だが、その際は彼らとまだ出会っていなかったため、誰一人として連絡をくれなかったし、私は深い孤独感を覚えていた。

「頑張れ(Forza)」とか、「元気を出して(Coraggio)」という言葉は、いまは頑張っていないのではないかというニュアンスを与えてしまう。 「ひとりじゃないよ(Non sei solo)」とか「私達が側にいるよ(Siamo con voi)」という言葉も、実際にそうできない私達には非力なものに思えてしまう。

だが、どんな言葉でも方法でもいい。「私達はひとりじゃない。誰かが側にいる。」ということをどうにかして伝えることができたなら、被災者の心は少しでも癒えるのではないか? 決して一回の言葉だけでは、どんな素敵な言葉をかけても伝わりにくい。

 

何かあるたびに、私達は寄り添い合い、悲しい出来事を共有しあった。 彼らにとって私はただのひとりの友人にすぎないだろう。ただ、「私達は確かに繋がっている」という思いが確信に変われば、私達はより強くなれるし、辛い出来事から立ち直りやすくなると思う。

 

また、万能な言葉もなければ、ひとつの言葉ですべてを癒せるような言葉もない。 だが、言葉は決して非力なものではない、どんなに被災地が悲惨な状況にあっても。 だから私達は何度も何度も、言葉を変え方法を変えながら、伝えていく必要がある: 「君たちはひとりじゃない、私達が側にいる」

 

東日本大震災の際に、知り合いの看護師が感じたことだ。 彼女は絶え間なく運ばれてくる悲惨な遺体を目の前にし、惨事ストレスを抱えていた。 だが、地震後一週間が経ったある日、阪神淡路大震災を経験した看護師から絵葉書が届いた。

絵葉書には、「頑張って」とか、「元気を出して」といったことは何一つ書かれていなかった。 ただ綺麗なお花の絵が書かれていて、言葉はなかった。

その際、彼女はこのように感じたという: 「私達は被災地にいて、灰色と茶色の景色に慣れ始めていた。だが、この絵葉書は世界には様々な色があったと、私に思い出させてくれた。」

私が思うに、惨事ストレスを抱えた被災者に必要なのは、無神経で心の傷を蒸し返すような執拗なインタビューではなく、何もかも失ったという心の喪失感を埋めるための、かすかな「癒やし」なのだと思う。

「頑張れ」に代わる言葉はあるが、万能な言葉はない。 私達は神様ではないから、一瞬で人を癒せる能力もない。 私達が被災者に伝えていくべきことは、「決してひとりじゃない、私達が側にいる」ということだが、それを伝えるのは難しい。 一回の言葉だけで終わらせては、どんな言葉にも意味はない。

 

あるべき被災者支援のかたちとは、何だろう。 "誰かの存在が必要に感じる人生のあるいっときには、手を繋いで、こう言う" "私はここにいるよ!一緒ならきっとできるよ"

 

イタリア語には、"siamo in due"(私達はふたりで一緒の状況にある)という言葉があることを最近知った。

それはうつ病などの精神疾患を持っている人たちの自助グループでよく使われる言葉だが、彼らが最も恐れているのは「見放されること、孤独」であり、それは地震の被災者にも共通している。

例えばある人が"私は助けが必要だ(ho bisogno di un aiuto)"とその自助グループに書き込んだとする。もしくは、Mi sento molto solo(私は深い孤独を感じている)と書き込んだとする。

そうすると、別の人が"siamo in due(私も)"と返す。 更に別の人が"siamo in tre"(tre=3)と返す。 Mi sento solo(孤独を感じる)がSiamo in due(私も同じだよ)に変わるとき、人は強くなれるのだろう。

そして、due (2), tre (3)....と連帯する人の数が増えれば増えるほど、最初にMi sento soloと書き込んだ人の心は温められていくだろう、ちょうど人と人とが手をつないだときに生まれる温もりのように。