出葉の調色版@ラクイラ愛好会

出葉(てには)が震災のことや防災のことについていろいろ書くだけのブログ。震災記事書き起こし: http://te2ha.blog.jp/

なぜイタリア語では「がれき」はいつも「macerie」なのか―日本とイタリアの「震災報道」のありかた―

日本では震災の報道をするときに、「がれき」という言葉を使わないようにしようという動きがある。それは被災者の感情に配慮しているからであり、「がれき」という言葉に含まれる「ごみ/がらくた」というものが被災者に失礼だからという理由である。

だが、イタリアではこのような議論を全くと言っていいほど見かけない。

 

高村光太郎さんの詩集「智恵子抄」の中の「報告」という詩では、がれきのことを「文化のがらくた」という表現をしている。

※違うかもしれないが、私はそう解釈した

私はよく小説を書くが、その際はあまりにも直接的すぎるので「日常の破片」と呼ぶようにしている。

日本では、東日本大震災以後「倒壊した建物」と言い換えようという動きが加速している。

 

だが、イタリアにおける地震の報道を見ていると、日本語の「倒壊した家屋の下敷きになり……」といったニュアンスの言葉がないことに気付く。

イタリア語では常に「sotto le macerie(がれきの下敷きになる)」という表現をする。

英語で言うところのunder the rubbleであるが、なぜイタリアには「倒壊した建物」といったぼかした表現がないのだろうか?

 

ここでイタリア語の辞書(手持ちの「プリーモ伊和辞典」)を引いてみる。

maceria (多くは複数形macerieで)

(倒壊した建物の)残骸、破片、廃墟

il terremoto ha ridotto molti edifici in macerie.

地震で多くの建物が瓦礫化した

こう書いてある。

 

ここで日本語の「がれき」の意味を調べてみる。

意味・定義 類義語
破壊されたもの、またはばらばらにされたものの残骸 砕片 ごみ くず がらくた くず物 屑 屑物 破片 

 

「被災者(この表現にも私は違和感がある。なぜなら彼らは地震が起きる前は「被災者」でなかったのに、そんな安易な言葉でひとくくりにしていいのか?という疑問からである)の愛する自宅などをこのように呼ぶのはいかがなものか」という世論が東日本大震災以後相次いでいてNHKはこのようなことを言っている。

 「がれき」ということばの使い方について考えたい。今出版されている国語辞典の大部分で「がれき」の意味は「①瓦と小石」「②つまらないもの」となっている。小委員会では「がれき」には「価値のないもの」という意味があり,「本人にとってはきわめて大事なものも入っているかもしれないのに,それをがれきということばで片づけられてしまうと違和感がある」と心配している。

 引用元

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/yougo/pdf/080.pdf

 

だが、イタリアにおいてこのような議論は聞いたことさえない。

なぜなのだろうか?

私はその糸口をつかみたくて、友人たちに質問してみた。

 

あるイタリア人は、macerieという単語の由来はラテン語であると述べた。

そして、彼はこう言った。 

瓦礫(macerie)は「ごみ(spazzatura)」を意味するのではなく、破壊された建物が地面に崩壊したもの、つまり残骸を意味する。 だから、"Macerie"は地震の被災者(i terremotati)に無礼ではない。

私はまだ納得できなかった。

別の友人はこう言った。

確かに、あなたの言うとおりで「ごみ」という意味も含意している(それが本意ではなく、メインの意味は「(倒壊した建物の)残骸」というプリーモ伊和辞典の意味だと彼も言ったが)から、私はあなたの意見に賛成する。

ただ悲しいかな、イタリアには「被災者の気持ちを傷つけない報道」よりも、「事実を端的に伝える報道」を優先する文化があるんだよ。これは日本人の思いやりとでも言うべきかな。

また別の友人はこう言った。

君の議論は全くナンセンスだよ。なぜなら君の話す日本語と私たちの話すイタリア語には差異があるからだ。そして、私たちは被災者にそう言った表現をすることはない。それは君もよくイタリアからの報道を見ているからわかるだろう。

日本では「被災者に配慮し、慎重に言葉を選ぶ」が、イタリアではそんなことはしない。なぜかって?それは不要だと多くの国民が思っているからだよ。なぜかは私も知らない。ただ、私たちは日本を見習わないといけないね。"macerie”という言葉はあまり被災者にとっていい言葉ではないから。

こんな意見もあった。

そもそも私たちは災害に慣れすぎていて、悲しい報道を聞いても心がマヒしてしまう国民性なんだ。悲しいことがあっても私たちはすぐに忘れてしまう。だから私たちは多少強い言葉でもそれを表現しなければならないんだ。

 また、こんな意見も聞くことができた。

私は全くそんなことを考えたことがなかった!確かに君の言うことはごもっともだよ!日本には確か「言霊(ことだま)といって、言葉に生命が宿っているという考え方があるんだよね?私たちもそれを見習わなきゃ!汚い言葉や、意味が強すぎる言葉は避けるべきだね。

結論、この問題もやはり「日伊文化の違い」とひとことで片づけてしまうものになるのだろうか……。報道の在り方が両国でかなり異なっているのが本当に興味深い。